日本の社会階層

『共感』は、社会階層により異なる。

1)社会階層の下位部が上層部による『共感』はその本質を理解されないまま一時的な「救済」として「施される」。

2)自己権利本位を主とする集団にとって『共感』は、自己の権利を侵害される可能性が極めて高い場合に「権利侵害排除」として行われる。

3)自己の権利も社会的弱者の権利も同一の権利であり保護され、尊重されるに値するとする連帯的な「同情」により実行される。

注意をしたいのは、『共感』には二面性があり一方では社会的弱者を救済するが、他方では国家からの介在によりメディアが情動的部分を世論に訴えかけるまたは国家に都合の悪いことは排除してしまう編集がなされることによる世論操作が行われる蓋然性があるということである。受動的「社会的弱者」への『共感』は一律であってはならない。なぜならば、受動的共感者は、能動的共感者と同じく一人ひとり多様性があるからである。現在の能動的共感者は、受動的共感者に対してその多様性を考慮することなくそれよりも一律の共感を押し付けているように思える。つまりそれは能動的共感者の自己満足であり受動的共感者への「真の『共感』」ではないと考える。真の共感とは、永続的に能動的共感者から付与されるものではなく、受動的共感者が解決すべき問題なのである。もしそうでないと考えるならば、国家からの支援や援助が主体となった場合、国家による受動的共感者の支配が始まると言えよう。そこからは、J.オウエールの1984のような「監視社会」やW.リップマンのような「世論」ステレオタイプのような社会が現出するであろうことが推測される。本文にて論証する。本文では、社会階層を基軸として、優生思想の起源や歴史、から現在の生命科学遺伝子工学などからデザイナーベビーや動物のクローンに対して生命倫理人工知能の急速な研究開発とその自立思考が表裏一体になっているかどうかを考える。結論は、共感と差別は表裏一体であると仮定し本論を進める。

 

現在の日本社会の「普通」は個人を尊重するのではなく国家からの強制的な「普通」のように感じる。identityと言い換えても良いかと思う一人ひとりの「普通」。その意味で{「普通」は社会の総合的結果}と仮定するなら個人の多様性を尊重するのが「普通」だと思う。結論は、「普通」とは個人の価値観であり社会から定義された「普通」は憲法13条を基礎とする「普通」ではない。他方社会には「普通」が存在するという二重構造でもあると思います。集合体の「普通」です。A(高学歴•経歴•社会的地位•収入等)B(中学歴•経歴•社会的地位•収入等)C(低学歴•経歴•社会的地位•収入等)このような集合体があると仮定すると、各集合体の中ではそこでの「普通」が存在します。承前)しかし、各集合体間の「普通」は共有されません。従って「社会の総合的結果としての普通」と個人一人ひとりの価値観や多様性を尊重する「普通」が表裏一体化しているように感じる。本音と建前が日本のみならず先進諸国にはあると考える。本音は前者。建前は後者。人間にはこのダブルスタンダードを使い分けている場合が多いと感じる。本音が建前に一致すればある種「人間の安全保障」となるでしょう。しかし、人類は絶滅するまで気付かないと思う。